レヴィ=ストロースの構造主義(1)物語の構造

哲学/思想

不合理の合理性

私たち現代人は発達した技術社会と文化の中におり、理性的で合理的なものを基礎とする創造的な営みをとおして社会を維持していると考えています。
だから未開社会の非合理で非理性的な文化を発達遅滞の劣ったものと見下し、呪術や魔術などの非科学的なものに対しては現代人は見向きもしません。

しかし、レヴィ=ストロースは、一見不合理で無意味に見えるものの中にも、おどろくほど合理的で生産的な「構造」が隠れていると言います。
むしろ私たちが合理的だと思っているものより以上の合理性な構造が、それら劣った非理性的な営みの中に存在しているのです。

 

芸術的直感の合理性

例えば、不合理で非理性的なものの代表シュールレアリズムの作家たちに持ち上げられた詩人ロートレアモン伯爵という人がいます。
彼の最も有名な詩の一節にある「解剖台の上のミシンと洋傘の偶然の出会い」という言葉は、芸術家の直感的インスピレーションから湧いた非理性的なものと考えるのが普通でしょう。
「解剖(手術)台」「ミシン」「洋傘」はなんの脈絡(構造)もない偶然のつながりと思えるわけです。
しかし、よく考えてみるとそうでもありません。

想像してください。
私が雨の日に洋傘を差していたとします。
目の前には線状の細い水(雨)と、線状の鉄(傘の骨)があります。
形状はそのままに素材を換置してみます。
すると雨は線状の鉄(針)になり、上からダダダダッと傘を叩きます。
傘は布を張ってできているため、それはまるで布の拡がりの上から針をリズミカルに落とすミシンのようです。
傘の布は雨をはじくもの、ミシンは布を貫くものという対比もあります。
また、私の目の前の布はバラバラに切られた三角の布8枚を円形に継ぎ縫われたものです。
その継ぎの縫い目はまるで漫画ブラックジャックの主人公の顔の継ぎのように、外科手術を連想させます。
傘の布が裁断され、縫われ縫合されるそれは解剖(手術)台です。

一見なんのつながりもないように見える三つのものの間にも、意味の重層的なつながりがあるわけです。
詩の美しさと感動は、ことばの意味の重層性を直感的に感じることの中にあるように、「解剖台」「ミシン」「洋傘」のあいだの隠れたつながり(構造)に、多くの人が魅力を感じるのです。

 

おとぎ話の合理性

詩よりも身近で構造の把握しやすい「昔ばなし」ではどうでしょうか。
分かりやすくするため単純化して考えてみます。

「鶴の恩返し」を要約すれば、「助けてくれた人間に鶴(動物)が恩返しをする→恩返しの交換条件として禁止を出す(決してはたを織っている時に中を見ないように)→人間は禁止を破りその代償を払う」となります。
この空を象徴する天にのぼっていく鶴を対比的に反転して、水を象徴し深い海へ潜っていく亀に換置したらどうなるでしょうか。
「助けてくれた人間に亀(動物)が恩返しをする→恩返しの交換条件として禁止を出す(決して玉手箱を開けて中を見ないように)→人間は禁止を破りその代償を払う」となります。

川に流れる桃(女性の臀部の象徴)から生まれた男児、桃太郎。
それら要素を対のものに換置すれば、
山に生える竹(男性器の象徴)から生まれた女児、かぐや姫。

このように昔話というものも、単なる作家の自由なインスピレーションで生まれるものではなく、隠れた構造によって事前に枠組みが決定されているということです。

要素と要素間の関係性全体である「構造」を曲げたりひねったりひっくり返したり、あるいは要素そのものを置きかえたり分離したりひっつけたり、そういう変形によって、あらゆる物語の構造が導出できるわけです。
「桃太郎」と「竹取物語」の導入部および「鶴の恩返し」と「浦島太郎」の構造変換は、簡単な要素の反転と換置によって導出できる典型例です。
浦島太郎の後日談、「老いた浦島を不憫に思った亀(乙姫)は浦島を千年生きる鶴にし、鶴は空へ羽ばたいていく」の場合なら、元の構造を反転的に延長すれば導出できます。
「動物の不幸を救済する人間→その返礼と違約→人間の不幸を救済する動物」です。

 

(2)へつづく