マルクスの『資本論』(4)剰余価値の成立

(3)のつづき

剰余価値

仮に前項において述べたような労働力の再生産が、一日一万円で可能な国であったとします。
資本家に雇われの身になった仕立て屋の私が作ったスーツの売り上げから、生産手段や販売にかかった費用などすべて差し引いた額を私の要した労働時間で割れば、私の労働が生み出す時間単位の価値が表せます。

それを一時間2,000円とした場合、一日8時間契約なら、16,000円の価値を私は産出します。
しかし、支払われるのは雇用契約書通りの固定給一日あたり一万円です。
これにより「貨幣→労働力商品(労働者)→貨幣」の等価交換のサイクルは、「10,000円→労働力商品(労働者)→16,000円」という自己増殖を生じさせます。
この増殖した分の価値を「剰余価値」といいます。
労働時間を増やせば、その分剰余価値も増殖するため、資本家は可能な限り労働時間を延長しようとする傾向にあります。
一日8時間の剰余価値+6,000円から、一日10時間にすれば剰余価値+10,000円になります。

生産物からの疎外

非常に分かりやすくいえば、生産手段を労働者が持つ場合、その努力や頑張りによって得た「喰うに困らない程度(商品の再生産可能な程度)」以上の余剰分の成果は、全てそのまま自分のものになります。
これが資本家の持つ生産手段のもとで雇われの身として働く場合、その余剰分の成果は見えない形で剰余価値としてすべて資本家のものとなります。

生産手段を持つ自立した労働者のサイクルは「商品(生産物)→貨幣(売上)→商品(再度生産物を作るために必要なものの購入)→労働→商品(生産物)」となる訳ですが、資本家の強みはこの他人の労働サイクルそのものを商品に出来るというメタレベルの経済活動なのです。
「貨幣→労働力商品(労働者)→貨幣」の中で生ずる余剰分の成果はすべて資本家に抜き取られます。

しかし、この剰余価値というものは労働者の側からは基本的に見えません。
システムの単なる部品である私から全体を把握できず、資本家というシステム全体の価値配分を鳥瞰できる位置に立たなければ分からないからです。
あくまで私は生活のために自発的に契約を結んで、等価交換で自分の労働力を売っていると思い込んでいます。
資本主義というものがどんな過酷な奴隷社会よりもはるかに多くの搾取を可能とするのは、剰余労働を労働者側から自発的に生み出すことができるからです。

一般的なイメージとして、資本家はたくさん生産物を売ってたくさん儲けたいから、その人手として多くの労働者を雇うと思われがちです。
しかし真実はその逆で、たくさんの労働者を雇ってたくさんの剰余価値を奪取したいからこそ、たくさんの生産物を販売するわけです。
もし資本家が剰余価値を取らず労働者が生み出す価値と同じだけの賃金を払ったなら、何百万人労働者を雇おうが儲けはゼロです。

絶えざる競争の中で

また、私は自分の労働力を繰り返し資本家に販売するということで生活を成り立たせています。
自分の販売商品である「自分の労働力」は、つねに「他人の労働力」という商品との競争にさらされているため、一定以上の品質の商品(労働力・がんばり)を提供しなければなりません。
こうして労働者は、自発的に隷属し、自発的に頑張って働くという構図が生み出されます。

だからといって資本家は奴隷をこき使って豪奢な生活を送りたいということで、剰余価値の増大を狙っているわけではありません。
資本家も労働者同様、他の資本家との激しい競争にさらされているため、価値増殖の追求や生産性の拡大を目指さなければ、資本家として生存競争に敗れてしまうからです。
いわば資本家も労働者も競争に駆り立てられて、いやでも生産性を無際限に拡大していくのです。

とあるアクション映画にもあるように、それは加速することを止めればただちに爆発する列車のようなものです。
資本主義という機関はそういう危険なエンジンを内在することによって稼動しているという認識をもって、マルクスはその批判とするのです。
(以上は『資本論』という大著のほんのさわりの部分です)

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