ベンサムの最大多数の最大幸福(2)

(1のつづき)

快苦の計算

ベンサムは快苦の計算において基準となる七項目を挙げます。

1、強さ・・・快楽の強さです。
2、持続性・・・快楽の持続時間量です。
3、確実性・・・その行為によって快楽が得られるかどうかの確率です。
4、遠近性・・・その快楽がどれだけ早く手に入るか(近いものは大きく、遠いものは小さい)。
5、多産性・・・快楽が別の快楽にどれだけ多くつながり快をより多く産出するかです。例えば、受験合格が自尊心という快を生み、自尊心はポジティブな生活態度から生ずる諸々の快を生みます。
6、純粋性・・・多産性とは逆に快楽を打ち消すような苦痛を産出する場合があります(例えばスポーツという快を得ると、同時に疲労や怪我などの苦痛を生じさせます)。
どれだけそういう苦痛を産出しない純粋な快楽であるかの基準です。
7、範囲・・・どれだけ最大多数の個人にそれらの快楽が与えられるかの範囲の大きさです。

これら快苦の計算によって得られた快楽の総量から苦痛の総量をひいた数値的な尺度によって、道徳や法の規範が導き出されるわけです。
もちろん、完全な数値化ではなく参考です。
各人が行動において頭の中でなす日常的な思考を一般則として抽出したものです。

動機説と結果説

倫理的問題を考える際に「動機」を基準にするか「結果」を基準にするかでその答えは大きく変わります。
ベンサムは結果としての快楽の総量を基準とする結果説で、動機説側から多くの批判にさらされます。
例えば結果のみしか見ないなら、人を助けようとした医療行為のミスにより病人を死なせてしまった医者と、意図的な毒殺を謀る殺人者の行為が等価になってしまいます。
倫理的価値判断において動機というものがいかに大切かが分かります。

しかし、結果説から見れば、動機説の言う「動機」というものの価値は単に快の総量という「結果」から逆算されて生ずるもので、それは本末転倒だということです。
人を助けようという意図が善いことで、人を殺そうという意図が悪いことだというのは、あくまでも結果から導き出された価値判断です。
例えば、敵兵に襲われた村人が娘を屈辱から守るために毒を飲ませ殺す場合、どうでしょうか。
その意図と行為が倫理的に悪いと言えないのは、娘には敵兵に虐殺される苦痛より父に毒殺される方が苦痛が少なく、父にとっても精神的にそちらの方が耐えやすいためという、功利的な結果から導き出されるものです。

ベンサム的な視点に立てば、動機説の言う「動機」とは、快を求め苦を避けるという根本的な動機と行為の間をつなぐプロセス(意図・見積もり)であって、根本動機(快の追求)そのものは端的に善でしかありません。
プラトン的な倫理観で言えば、「動機としては誰もがみな善かれと思って行動している。しかし理性的判断の誤りの為にそれらは結果として悪になる。無知を正し、理性によって正しく行為を馴致することが、悪という行為をなくす最良の手段である」という感じでしょうか。
そしてその理性によって正しく行為を馴致するというプロセスを立てる上での基準となるものが、「最大多数の最大幸福」という原理になるのです。

「自然は人間を快および苦という二つの君主の支配下においた。われわれがなすべきところのことを指示するとともに、同じく我々がなすであろうところのことを決定するのは、ただ、これらの君主だけである。~功利の原理はこの隷属の事実を認め、それを、理性と法律の手によって、至福の建物をたてることを目的とする理論体系の基礎たらしめようとするものである」
ベンサム『道徳および立法の原理序論』より

目次へ