「オバケの存在証明」

オバケの棲み処

オバケの小説で有名な泉鏡花の作品に出てくる悪左衛門という魔物が、人間に対して面白いことを言います。
オバケは人間の瞬く間を棲処とするので、人間には気付かれないという主旨です。
人間が目を閉じている間だけ存在するとも解釈できますし、サブリミナル広告のように人間には認識できない程度の瞬く間にだけ存在しているとも解釈できます。
いずれにせよ、人間の知覚能力外にオバケは存在しているという意味です。

例えば、私が知人の研究室で顕微鏡を見せてもらったとします。
一見すると、顕微鏡のステージには何にもいません。
しかし知人が高速度カメラで撮った動画を見せてくれると、そこには何かしらの微生物がうじゃうじゃとせわしなく動いています。
人間の生きる時間とその生物の速度が違いすぎたため、知覚できなかった訳です。
空を流れる白い雲も、人間の生きる時間と近い速度であるため存在するのです。
もしその雲の流れる速度がもっと速ければ、空に雲はなく、いまより空色の彩度が落ちた、すりガラスをかけたような何もないフラットな空が存在するだけでしょう。

それは時間に限らず、空間についてもいえます。
私たちの前に美しいバラの花が存在できるのは、それが人間の生活空間のサイズに近いからです。
シロナガスクジラや巨大恐竜には、砂粒のようなバラは存在できず、知覚の対象ではありません。
逆に私たちはアリの知覚している事物を存在として認識することはありません。

生物から見た世界

ヘレン・ケラーがカント哲学を通して、スウェーデンボルグ的な霊界を信じたのもそれほど不合理なことではありません。
人間の数倍の可聴域を持つ生物には人間の数倍の音が存在し、人間にとっては静かな場所もその生物にはうるさい工事現場のような場所かもしれません。
人間の可視光線の範囲外の波長をとらえられる生物は、人間には何もないはずの暗黒にも存在物を見出せます。
赤外線の暗視ゴーグルや、宇宙のX線観測のように、一見何も存在しなかったはずの場所に存在者が知覚されるのです。

また、世界の存在物に色や光など存在せず、それは人間の網膜の刺激に対して脳の中で生まれるものです。
厚さ10メートルの鋼鉄で光をさえぎった真っ暗な部屋にいても、網膜に刺激を与えれば、強い光が生まれます。
りんごの甘さも、唐辛子の辛さも、渋柿のしぶみも、存在物自体にあるのではなく、人間の舌と脳が生み出すものです。
香りも、温度も、肌触りも、私たち人間の感覚の形式であって、世界の存在物はただ何らかの刺激を発する得体の知れないもの「存在X」でしかありません。

私たち人間は、あくまで持って生まれた五感の形式(厳密にはもっと細かく分けられる)の範囲内のものしか認識できず、私たちの知らない世界は無限に存在するわけです。
人間にできることは、上に挙げた顕微鏡や高速度カメラ、X線観察などの科学技術によって人間の知覚可能な範囲を拡大することと、世界にはまだまだ未開の領域が存在するということを謙虚に受け容れることです。

オバケはそこにいる、かも

もし仮に、人間の五感の形式とまったく重ならない感覚の形式をもった生命体がいたとすれば、私の横を通りすぎたとしても気付かないかもしれません。
しかし、超音波によるエコーや、電場を感知できる生物がいるように、人間の中に突然変異で五感外の感覚(第六感)をもつ者がいたら、彼にはその通り過ぎたオバケの存在が知覚できるかもしれません。

しかし、そんな語りえないものについては沈黙するのがクールなスタイルです。
語りえないものについて語ることがファンタジーの醍醐味ですが。