スキナーの行動心理学(2)

1のつづき

擬似科学としての心理学批判

意識や目的を行動の原因とする既存の心理学の説明は、本当に納得いくものなのでしょうか。
子供がイタズラをするのはお母さんにかまって欲しいからだ、と愛情欲求と目的論で説明されるとなんとなく納得してしまいます。

しかし、スキナーはこれを擬似説明としてしりぞけます。
ただ「かまって欲しいから」という意識をもてば、イタズラという行動が結果として出てくるというのは、よく考えるとかなりナンセンスです。
仮に関係のない第三者の頭の中に「かまって欲しいから」という意識を注入できたとして、そこからイタズラという行動が帰結するなど言えるわけがありません。

過去においてイタズラをするとお母さんが反応するという好子によってイタズラという行動が強化されており、かつそれを発動させるような環境条件(退屈、孤独など)が揃うからこそ、<意識のうちに「かまって欲しい」という感情が湧き>、その行動を起こすのです。
時系列的に行動の直前に意識が挟まれるため、それがその先にある環境という本当の原因を見えなくさせている訳です。

この擬似説明というレトリックは、心理学において重要な人格特性の説明にも使われています。
例えばある学者が木からリンゴが落ちるのを見て、「重さのあるものは下方へ向かって運動する、これを『重力』と名づけよう」と言ったとします。
そして後日、なぜリンゴは木から落ちるのかと学生に問われて、「その原因はリンゴに重力がはたらいているからだ」と答えたとします。
多くの人はこれで納得してしまう訳ですが、これは単なる「言い換え」に過ぎません。
物体は下方へ運動する=重力と名づけた上で、下方運動の原因を重力と答えるのは見え透いた詭弁ですが、騙されてしまいます。

「ある人の行動がおとなしいのは内向的人格だからだ」とか、「ある人の行動が自己中心的なのは権威主義的人格だからだ」とか、単なる言い換えという擬似説明が行動の原因としてまかり通るわけです。
おとなしい行動をとる人=内向的人格と名づけておいた上で、おとなしい行動の原因は内向的人格にあるという循環論法なわけです。

これらの擬似的説明で人を納得させ説得することはできるかもしれません。
それによって問題行動が生じるクライアントのルール(行動随伴性を制御する言語刺激)を、より精神的健康を増すような行動を導くルールへ切り替えさせることはできるでしょう。
それによって心理学的問題の解消や治療という目的は果たせます。

しかし、それは科学としての心理学ではありません。
原因結果関係の記述も予測も、それによるコントロールも不可能です。

決定論的自由意志論

スキナーの考えが決定論的で人間を物と同等に扱う管理者のように見え、人間の自由や意志を信じるヒューマニストからは非常にニヒルなマッドサイエンティストのように思われます。
しかし、自由意志の盲従から生ずる無批判な行動の行き着く先は破滅です。
誰もが自分の意志を信じ、テレビでいじめを観、新聞で戦争の悲惨を知っても、「私は大丈夫。いじめなんて馬鹿なことしないし、戦争で人を殺すくらいなら自分が死んだほうがマシだ」などと思っています。
しかし、大戦という歴史のふたを開けてみれば、そういう普通の善良な人々が、そういう状況になれば、率先していじめや拷問を行う集団の成員になるわけです。

本当に重要なことは自由意志を信じ駆けることではなく、人間は何ができ何ができないかという限界をまず知りその上で行動を起こしていくという、地に足をつけた牛歩です。
スキナーが人間行動を因果論的に記述する先には、それによって未来に向けてのよりよい行動を導いていくためです。
決定論は「人間は状況の奴隷だ」で終わりますが、スキナーが目指すのは「人間は状況の奴隷だ、しかし状況そのものを選択していくことはできる」というメタレベルの自由意志です。

会社の帰り道、焼き鳥屋の香ばしい匂いが空腹に沁み、ついつい入って無駄遣いしてしまいます。
会社を出る前に自分の自由意志によって焼き鳥屋には絶対入らないと決断してみても、その状況になればやっぱり入ってしまうのが人間です。
けれど自身の行動のその因果関係を知っていれば、会社を出る時に状況そのものを選択することによってそれを回避できるわけです。
「家まで一駅だけど焼き鳥屋の前を通らぬように電車を使って帰ろう。飲み代に比べれば微々たる出費だ」と。

私や共同体に何かこうなりたいというヴィジョンがある時、直接それに成るような方法はなく、ただ状況を選択的に変えていく(環境を整える)ことによって、そのヴィジョンへと間接的に導いていくことができるだけです。

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