マルクス・アウレリウスの『自省録』2

1のつづき

今この時を生きる

前項においての主題であった想像の産物を排するということは、時間においては未来と過去を排し現在にのみ生きるということに直結します。
私たちは現在において与えられたものの明晰な経験の中で生きることを選ぶべきであり、想像の産物である未来の憂いや過去の悔いなどは無意味な苦悩の幻想でしかありません。

無限に広がる時間の中では、数百年間名を残す行為も数日間しか人の心に残らぬ行為も、なんら違いはありません。
無限に広がる時間の中では、私が行うことなど過去の誰かが何度もやったことであり、未来においてまた誰かがやるであろう、ただ役者が変わるだけの人生劇場でしかありません。

私たちが持っているものは現在だけであり、失うものも現在だけであり、苦労すべき価値あるものも現在だけであり、未来や過去の喪失の不安や苦労などありえない幻想です。
万物は流れる川のように変化し、その変化の瞬間(現在)しか存在しえません。
この全時間を包含した「現在」を感得した人にとっては、80年という人間の一生や死などというものは取るに足らないものです。
現在という瞬間に与えられている内なる自然の導き(指導理性)にのみ従い、宇宙の自然が与えたこのもの以外に重要なものはありません。

完全な人間の特徴は、毎日あたかもそれが自分の最後の日であるかのごとく過ごし、動揺もなく、麻痺もなく偽善もないことにある。(同7巻の69)
現在の意見が納得のゆくものであり、現在の行為が社会の役に立つものであり、現在の態度が外的な原因から生じ来るすべての事柄にたいして満足するていのものならば、それで十分なのである。(同9巻の6)

宇宙の自然を受け入れる

指導理性の導きにより、人間は自由であらゆる障壁を乗り越えられるように思えますが、それにも限界があります。
前項における「世界を明晰に見る」とはこの限界確定も伴い、先ず何が自分(指導理性)には可能であり不可能であるかを知ることが重要になります。

この指導理性によっても不可能な障壁を解決するために、マルクスは指導理性という狭い主体から、宇宙レベルの鳥瞰的な視点へと飛躍します。
自然におけるあらゆる事象は、真偽、善悪、快苦、美醜、損得問わず、すべて宇宙の自然を稼動させるための重要な要素であり、何ものも無駄なものは存在しないという視点です。
すべての事物は調和しあい、パズルのピースのようにはまり合いつつ協力しあい、宇宙は完全性を保っています。

死は生を準備し、闇は光を可視化させ、苦しみは幸せへの希求を生み、醜さは美しさのアクセントとなります。
宇宙の自然という鳥瞰的な視点に立てば、すべてのものには意味があり価値があるということが感得され、それを受け入れるとき、なにものにも動じることなきストア哲学の理想「アタラクシアー(心の平安)」へといたることとなります。

~したがって自分がかかる全体の一部であることを記憶している限り、私はあらゆる出来事にたいして満足しているであろう。また同胞である他の部分と密接な関係にある限り、私はなんら非社会的な行為をなさず、かえって同胞の人々のことを心にかけ、自分の全活動を社会公共の利益へ向かわしめ、これに反するものから遠ざけるようにするだろう。かようにすれば人生は必然的に幸福に流れていくだろう。~(同10巻の6)

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