ニーチェのアポロ的とディオニソス的

アポロ的とディオニソス的

ニーチェ哲学の基礎を形作った出来事として、若い頃のショーペンハウアー哲学への耽溺とその反動というものがあります。

先ずはショーペンハウアーの項を読んでいただきたいのですが、それは世界の根源には混沌とした欲望する意志の塊のようなものが存在し、人間はそれを理性によって分別(形を与え)し合理的に統制することによって、秩序だった世界を認識しているという世界観です。
ニーチェはそれを神話とのアナロジーにおいて表現し、この混沌とした欲望する意志をディオニソス的、それを理性によって秩序づけようとするものをアポロ的ものと名づけます。
この対比は人間の根本的な類型として、古代から現代に至るまで様々な形で変奏され今に生き続けています。

例えばプラトンの場合は、この欲望する意志(ディオニソス)という荒馬を、理性(アポロ)という御者によって統制することで、よりよく生きることを目指します。
キリスト教の場合は、この欲望する意志そのものの滅却を企て、エゴからの解脱と禁欲の生を目指します。
しかし、ニーチェは欲望する意志を制御するのでも、なきものにするのでもなく、むしろこれを肯定し受け入れ、そのただなかで生きるという第三の選択を選びます。
ニーチェ哲学に通底するディオニソス賛歌です。

ディオニソス的な生き方

アポロ的、ディオニソス的といってもあくまでそれは類型(モデル)であって、白と黒の間にグレーの階調が無限にあるように、現実においては程度の問題です。
例えば、形にたよる絵画はアポロ的、形を要しない音楽はディオニソス的です。
しかし、さらにはアポロ的絵画とディオニソス的絵画があり、アポロ的音楽とディオニソス的音楽があるように、細分化した階調によって成り立っています。
具体的には、アポロ的音楽とは厳かで格調高い理性的な音楽であり、ディオニソス的音楽とは騒々しく肉体的興奮を伴う様な情熱的な音楽です。

分かりやすく国民的漫画のドラえもんのキャラクターに喩えるなら、理性的で自己抑制を保ち友愛の眼差しを向ける出来杉くんがアポロ的な生、反対に感情的でエゴに忠実で荒々しい闘争の中で生きるジャイアンはディオニソス的な生です。
社会というものが法という秩序の元に成り立つ世界であるため、アポロ的な生のほうに高い価値が置かれます。

しかし、人間が求めているものはもっと別のもののように思えます。
会社が終わるとクラブへ行ってトランス音楽の中で我を忘れて踊る者。
休みの日には祭りに参加し、ワッショイと皆で神輿を担いで汗を流す者。
やんやの酒宴に、ロックフェスの一体感に、ゲームの闘争に、スポーツで身体を躍動させる快楽に、異性との性の交わり。
アポロ的な秩序という人間社会の中にありながら、人はディオニソス的な原初的生の欲動を発露させることに、むしろ本当の自分を感じ取っています。

生の哲学としてのニーチェ

ここで重要なことですが、ニーチェは原初的な生を躍動させる暴力や性の純粋な発露をも肯定する訳ですが、これは決して反動的ないわゆるルサンチマンから生ずる暴力性ではないということです。
宗教的対立の憎しみの中で相手方を大量虐殺することや、生を謳歌する人間に対しての妬みと恨みから無差別殺人を行うことや、女性と接することの出来ない男性が陵辱的な性対象として女性を扱うことなどは、むしろ生を退廃させるものであり、ディオニソス的とは真逆のものです。
ニーチェがキリスト教道徳を痛烈に批判するのは、それがディオニソス的な「生の欲動」を否定し、生に反する「死の欲動」を軸にして動き出すため、最終的にはすべてを否定し無にしようとするネガティブな倒錯した暴力性に行きついてしまうからです。

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