デカルトの『方法序説』

方法的懐疑

学問において基本的な前提が間違っていれば、いくら厳密な探究を積んだところで後にそれが大きな誤りとして噴出し倒壊します。
そこで自然科学における確固とした基本的な前提を発見し、どんなに高く積んでも崩れない建物の土台を打ち建てることが、デカルトの目的となります。
そのために先ずあらゆる既存の常識、学識に対し徹底的な懐疑をかけ、少しでも確実でないものはすべて打ち捨てていきます(方法的懐疑)。

例えば私たちの日常に照らした時、私の机の上にあるリンゴがリンゴであるという事は確実だと思われます。
しかし、それをかじった時、それが誰かがイタズラですり替えた蝋の食品模型であるかもしれません。
地球が丸いということも確実であるように思われますが、それがメディアが作った国家レベルで捏造された合成写真だという疑いをかける事も出来ます。
私が今ここでリアルに体験していることが確実だと思われる現実も、胡蝶の夢のようにリアルな夢を見ているだけかもしれません。

コギト

非常にバカバカしい話かもしれませんが、ほんの少しでも疑いのかけられるものは、基礎として成立しません。
ほんの些細な誤差でも、やがては大きな誤差になっていくためです。

しかし、そうした徹底的な方法的懐疑の末に、ひとつだけ残るものがあります。
それが、この疑いをかけ考えて続けている私そのものです。
この私が考えているということそのものは、どうしても疑いようのない確実なものに思われます。
そこでデカルトの有名な「われ思う、ゆえに、われあり(コギト・エルゴ・スム)」という言葉が生まれます。
自然科学の基礎、哲学の第一原理としてのコギトの誕生です。

主観と客観

ここにおいて「考える私」と「存在としての私」という分節が生じます。
それは「思う私」と「身体としての私」の分節でもあり、「主観(見る私)」と「客観(見られる私)」という思考の枠組みを生じさせます。
認識する人間と認識される対象というこの枠組みが、「認識論」というその後の大きな思想潮流を生み出す転回の起点となります。
イデアや神のような外部の真実在ではなく、意識としての私が第一の原理であるというこの発想は、カントによって精緻化されコペルニクス的転回として受け継がれることとなります。

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