ロジャーズの自己実現 1

あるがままの私

カール・ロジャーズは様々な心の問題をひき起こす根本的な原因として、自己と他者(他人と言うr意味ではなく自己でないもの全般)の間のバランスが崩れ、本来の主体である「あるがままの自己」がそれに呑まれ見失われてしまうことにあると考えます。
他者の目や意見や価値観に心を奪われ自分を見失った人、逆に自分の誇大妄想化したエゴの殻に閉じこもり他者を見失った人。
客観的な現実のみに心を奪われ自分を見失った人、逆に自分の主観的な幻想に閉じこもり現実を見失った人。

自然の当為は、対概念の絶妙なバランスによって成立しています。
一見、地球(私)の周りを月(他者)が回っている様に見えますが、あくまで月と地球が共通重心という絶妙なバランス点を軸にして対等に公転し合うように。
その自己と他者のバランスをとる主体「あるがままの私」を取り戻すことで、病んだ心に健康をもたらすことを目指します。
フランクルの実存や森田正馬のあるがままにも共通した問題です。

来談者中心療法(非指示的療法)

しかし、この「あるがままの自己」というものは、単純に知識によって教えることが出来ません。
だから旧来の方法、療法家が積極的にイニシアティブをとって答えや解釈を与えたり、指導したりする、教師と生徒、医者と患者のようなモデルは役に立ちません。
なにしろ重要なのは来談者の失った主体性を取り戻すことなのに、療法家がそれを奪う立場では元も子もありません。

そこでかなり逆説的ですが、療法家は何もしない、ただ来談者の話を聴き相手の話の確認を取るだけという、いわば来談者の鏡のような存在に徹します。
それにより来談者は鏡に映ったもう一人の自分の姿から何かを見出し、あるがままの自己への気付きへといたります。

本来、心の問題の答えというものは、その人自身の中にあるものです。
ある論理学者が揶揄したように、精神分析や心理学はただ患者が持つ症状の出る世界観(物語)から症状の出ない世界観(物語)へと解釈を与え直すだけ、では駄目なのです。

統一された自己概念

では、あるがままの自己が生み出す健全な自己とはどういう状態でしょうか。
自己は常に外部の経験を自分なりに解釈し、自己の中に位置づける必要があります。
心の中で自分史の日記を書くように、日々の経験を自分の中に意味づけ位置を与えることによって、自己の同一性(アイデンティティー)を世界との関係という地図の中に描くことが出来ます。

「愛犬の死という経験が、私の獣医への道を切り開いた」
「子供の頃にすがり付いていた母のエプロンの柄が、画家である私の色彩感覚を決定した」
多分、愛犬の死や母のエプロン柄が、その人の人生を大きく決定した直接要因になっている訳ではありません。
その経験を自分なりに解釈し、自分史の中に位置づけることによって、自己の中の他者(世界)と他者(世界)の中の自己に同一性(いわば存在価値、居場所)を生み出すのです。
私は私の自分史物語を作ることなく私であることは決して出来ません。

この、あるがままの自己が生み出す統一された自己概念が、自己の解釈構造に寄り過ぎて他者(経験・世界)を見失ったり、自己の解釈構造を否定するような他者(経験・世界)を強引に意識化せぬよう否認したりする時、自己の同一性に不一致と齟齬が起こり、心はつねに緊張と不安、非統制と歪曲にさらされ、病的な問題が噴出してきます。

具体例 

例えば(少女漫画の主人公にありがちですが)、自分は容姿が悪く不器用で男子から相手にされない駄目な子だと、自己の解釈構造を作り上げている女子学生がいたとします。
ある時、下駄箱の中にクラスで人気の男子A君からの恋文が入っていました。

この時、自己の解釈構造に寄り過ぎていたなら、「A君が私なんて駄目な子を相手にするわけがない、きっと男友達と共謀していたずらでバカにしてるんだわ、破ってやる」となります。
あるいは恋文そのものの存在を無視して、自己の解釈構造を否定するこの事実そのものを強引に無かった事にしてしまいます(無意識の中に沈める)。
しかし統一された自己なら、この経験と自己の解釈構造を統一し、「私は容姿は並で不器用かもしれない、でもそんな素朴なところを好きになってくれる男子もいるかもしれない。イタズラの可能性もあるけど、とりあえずA君と会って真偽を確かめてみよう」となります。

2へつづく