ロジャーズの自己実現

心理/精神

あるがままの私

カール・ロジャーズは、様々な心の問題をひき起こす根本的な原因として、自己と他者(他人という意味ではなく自己でないもの全般)の間のバランスが崩れ、本来の主体である「あるがままの自己」がそれらに呑みこまれ見失われてしまうことにあると考えます。
例えば、他者の目や意見や価値観に心を奪われて自分を見失った人や、反対に自分の誇大妄想化したエゴの殻に閉じこもり他者を見失った人。
客観的な現実のみに心を奪われ自分を見失った人や、逆に自分の主観的な幻想に閉じこもり現実を見失った人、などです。

自然というものは、対(反対)概念の絶妙なバランスによって成立しています。
その自己と他者という対のもののバランスをとる主体「あるがままの私」を取り戻すことで、病んだ心に健康をもたらすことを目指します。
それはフランクルの実存や、森田正馬のあるがままにも共通した問題です。

不自然な在り方によって見失われた、人間が自然本来的に持っている自己と世界の調和的な在り方を、自己受容、自己尊重よって、その人自身に気付かせることです。
それが自己の成長であり、自己実現であり、これを可能とするものが、患者自身の主体を重視するクライエント(来談者)中心療法です。
既存の「患者」という呼びかたでは、療法家が中心あるいは上位になってしまうので、ロジャーズは相手を尊重し「クライエント(来談者)」と呼び、それは後のカウンセリングの標準的な語となります。

 

来談者中心療法(非指示的療法)

しかし、この「あるがままの自己」というものは、単純に知識によって教えることが出来ません。
だから旧来の方法、療法家が積極的にイニシアティブをとって答えや解釈を与えたり、指導したりする、教師と生徒、医者と患者のようなモデルでは役に立ちません。
なにしろ重要なのは、来談者の失った主体性を取り戻すことなので、療法家がそれを奪う立場では元も子もありません。

そこでかなり逆説的ですが、療法家は何もしない、ただ来談者の話を聴き相手の話の確認を取るだけという、いわば来談者の鏡のような存在に徹するのです。
それにより、来談者は療法家という鏡に映ったもう一人の自分の姿から何かを見出し、あるがままの自己への気付きへといたります。

本来、心の問題の答えというものは、その人自身の中にあるものです。
療法家は、ただ患者の持つ、症状の出る世界観(物語)から症状の出ない世界観(物語)へと解釈を与え直すだけでは駄目なのです。

 

統一された自己概念

では、あるがままの自己が生み出す健全な自己とはどういう状態でしょうか。
自己は常に外部の経験を自分なりに解釈し、それを自己の中に位置付ける必要があります。
心の中で自分史の日記を書くように、日々の経験を自分の中に意味付け、位置を与えることによって、自己の同一性(アイデンティティー)を、世界との関係という地図の中に、描くことが出来ます。

例えば、「愛犬の死という経験が、私の獣医への道を切り開いた」「子供の頃にすがり付いていた母のエプロンの柄が、画家である私の色彩感覚を決定した」などと、誰かが言います。
けれど、これは愛犬の死や母のエプロン柄が、その人の人生を大きく決定した直接の要因になっているという訳ではありません。
その経験を自分なりに解釈し、自分史の中に位置づけることによって、自己の中の他者(世界)と他者(世界)の中の自己に同一性(いわば存在価値、居場所)を生み出しているのです。
私は私の自分史(物語)を作ることなく、私であることは決して出来ません。

この、あるがままの自己が生み出す統一された自己概念が、自己の主観的な解釈の構造に寄り過ぎて他者(経験・世界)を見失ったり、自己の解釈構造を否定するような他者(経験・世界)を強引に意識化せぬよう否認したりする時、自己の同一性に不一致と齟齬が起こり、心はつねに緊張と不安、非統制と歪曲にさらされ、病的な問題が噴出してきます。

要するに、主体性をきちんと持ち、かつ同時に他者の存在にも開かれ、その現実に即した経験を自己に統合することが、安定をもたらすということです。

 

具体例

例えば(少女漫画の主人公にありがちですが)、自分は容姿が悪く不器用で男子から相手にされない駄目な子だと、自己の解釈構造(世界観)を作り上げている女子学生がいたとします。
ある時、下駄箱の中にクラスで人気の男子A君からの恋文が入っていました。

この時、自己の解釈構造に寄り過ぎていたなら、「A君が私なんて駄目な子を相手にするわけがない、きっと男友達と共謀していたずらでバカにしてるんだわ、破ってやる」となります。
あるいは恋文そのものの存在を無視して、自己の解釈構造を否定するこの事実そのものを強引に無かった事にしてしまいます(無意識の中に沈める)。

しかし、もしこれが統一された自己であれば、この経験と自己の解釈構造を統一し、「私は容姿は並で不器用かもしれない、でもそんな素朴なところを好きになってくれる男子もいるかもしれない。イタズラの可能性もあるけど、とりあえずA君と会って真偽を確かめてみよう」となるでしょう。

 

自己実現への道

カウンセリングを通して、あるがままの自己、いわば主体を取り戻し真の自己を実現していく過程は、以下のようになります。

Step1、潜在的な自己を体験する

自己の解釈構造に合致しない経験を否認したり、歪曲したりすることなく、体験を素直に自覚することが出来るようになります。
例、「私は妹を裏切ったアイツのことを大嫌いだと思っていたが、時々苦しいくらいアイツに好意的な感情を抱くことがあることに気付いた」
これは、自分の経験に対し反省を加える前の純粋な体験感情を、素直に受けいれられる姿勢です。
自己の解釈構造を強引に経験に刻印したり、不都合な経験を無視したりするのではなく、「自分の純粋な体験から、自分自身を概念化(自分がどういう人間であるかを理解)していくことができる」ということを発見します。
あらかじめ定められた自己の解釈構造から演繹的に経験を意味づけるのではなく、純粋な体験から帰納的に自己を再発見することが出来るようになります。

Step2、他者との情緒的な関係を体験する

他者の感情を受け入れ、自己の感情を認め、他者との情緒的な関係を共有できるようになる段階です。
いわば個人の情緒的な殻から飛び出す、社会化の過程です。

1において自己の解釈構造が強引に経験を意味付けていたように、感情もそれに統制されてしまっています。
本当は皆と一緒に笑いたい(楽しい感情を共有したい)人が、「私は冷静で超然とした才人であらねばならない」という解釈構造を持つがために、他者が差し伸べる楽しみの情緒的共有を拒み、それに応えたいという自己の純粋な感情をも無視し押さえつけてしまいます。

ここで、他者の感情を受け容れることは、決して自分を混乱させたり傷つけたりする危険なものではなく、むしろ他者と感情的に共にあることが「よい心地(feels good)」であることに気付く必要があります。
「私は、誰かが私のことを大切に思っているということを十分に受け容れることが出来ます。それによって私自身もまた、他人のことを大切に思うことができるようになるということに気付きました」と。

Step3、自分自身を好きになる

潜在的に自己に対して持っていた不信と否定的な感情が徐々に薄れ、信頼と肯定による好意的な感情へと移っていきます。
好きになるといっても、自分好きを他者にアピールするような反動的なものや、舞い上がるような高揚感ではなく、ある種の落ち着いた自発的なくつろぎの感情です。

「鳶飛魚躍(鳶が飛び、魚が躍る)」という中国の言葉のように、自然(ネイチャー)が自然(ナチュラル)に、原初的な生きる喜びを楽しんでいるような状態です。
うわべの自己(自己の解釈構造に支配された自己)によって抑圧されていた、この生物に先天的に備わっている肯定的な感情の発露が、自分を好きになるということです。
それが仮面を脱ぎ捨て、あるがままの自己になるということの意味です。

フロイトが人間の根源に欲望する意志の塊を見出した場所に、ロジャーズは肯定的で生の喜びに溢れる生命の泉のようなものを見出します。

 

おわり

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