鈴木大拙の禅 2

1のつづき

即非の論理

悟りの境地へいたるための道はいくつもありますが、特に禅の根幹となる論理として「即非の論理」というものを挙げます。
「AはAだというのは、AはAでない、故に、AはAである」
公式化すると、「AすなわちA、Aすなわち非A、故にAすなわちA」。
具体的にいうと、「竹は竹である、竹は竹にあらず、ゆえに竹は竹である」。

言葉だけを捉えれば、矛盾だらけで何を言っているのか分かりません。
そこで先ほどの星座の話(分別界と無分別界)を思い出していただきたいのです。
「竹は竹である」というのは、分別界にある日常的な事物としての竹です。
「竹は竹にあらず」というのは、竹という分別が解体し無分別界が発露した状態です。
「ゆえに竹は竹である」というのは、一度解体した日常的な竹が無分別界をいったん通って、もう一度竹として再分別(再構築)された状態です。
無分別を経た分別という意味で、「無分別の分別」といいます。
公式化すると、「分別-無分別-無分別の分別」という弁証法に似たサイクルになります。

無分別智

具体例で説明してみます。

ある農夫が、おとなしく可愛いAという生物を「良」、常日頃から可愛いAに危害を加え大切に育てている作物まで喰い荒らすBという生物を「悪」、と分別していたとします。
ある時、作物の三分の一をBの群れによって駄目にされたことに腹を立てた農夫が悪であるBを全て捕獲し殺処分したとします。
それで平和が訪れると思いきや、可愛いAを捕食していた凶暴なBが居なくなったことにより、Aの繁殖に歯止めが利かなくなり、やがて無数のAにより作物はすべて踏み潰されてしまいました。

これにより良-悪と単純に分別していた価値観が瓦解し、AとB(良と悪)はひとつにつながる生態系のいち環境でしかないという無分別の世界が発露し、それによりAとBという生物はこれまでと違った価値観で見られることになります。

「AはAである」・・・恣意的に可愛いAを「良」としていた農夫の先入観(分別)。
「AはAにあらず」・・・その先入観が瓦解し、無分別界が発露する瞬間(無分別)。
「ゆえにAはAである」・・・一度無分別を通り、Aがより根本的な価値観の中で見られるようになる(無分別の分別)。

だから農夫がはじめからこの無分別の分別という知を所有していれば、可愛いAの被害とたまに起こる三分の一の作物の被害はあくまでも環境の一部として自然に任せていたことでしょう。
これが「二に分かれる前の一を見る」、具体的な「無分別智」のありかたです。

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