パースのプラグマティズム

行為としての思考

生物は基本的に混沌を嫌います。
生物の多くの当為は、混沌とした環境世界を秩序立て、安全な生活世界を作り出すことだからです。
動物実験や戦時の監獄における実証研究のように、物事が決定されない不安定な状態に生物は非常に強いストレスを感じます。
私たちの日常経験で例えるなら、合否や将来の進路が決定しない不安な受験生、病院の診断の結果を待つ患者、海外の見知らぬ土地で迷った時の強い焦り、等々。

それは観念においても同じで、人は不安定な観念を持つ時、それを安定した観念へともたらそうとします。
その苛立つような不安定な観念「疑念」を、安定した満足な状態である観念「信念」へと変えようとする行動が「思考」です。
そして、この「信念」が定着すると、それは「習慣」や「常識」となります。
疑念を停止させ信念を生み出すこと、その探究行動そのものが思考の機能です。

具体的には

例えば、古代の人たちにとって雷の発生は不安以外の何ものでもありません。
不規則に発生する強烈な轟音と光、それは混沌の不安を象徴するような出来事です。
そこで古代人は、その混沌を秩序立て既知のものへとするために思考をめぐらせ、雷の正体として「神々の怒り」という信念を生み出します。
そうして雷の混沌は神々の怒りという秩序世界へ回収され、雷が鳴った時には神の怒りを静めるために天に祈るという具体的な行動によって、不安な心理とストレスは解消されます。
ここで重要なことは、信念は真でも偽でも関係なく機能するということです。
仮に古代人にとって常態化した信念(習慣・常識)になった「雷=神の怒り」という観念が、新たな事象(例えば神の不在の証明)によって不安定な疑念となるならば、そこでまたその疑念の解消のために「思考」が動き出し、新たな信念(例えば雷雲による放電)を探究によって生み出します。

さらに私たちの生活に即していえば、
バイトの帰り繁華街まで電車とバス、どちらで行くべきか。(疑念)
電車の方が50円高いが30分早く着く、その分バイトを30分延ばしたら500円多く稼げる(探究)
よし、バイト帰り繁華街へ遊びに行くときは電車を使おう。(信念)
私が繁華街へ出かけるときには特に意識もせず常に電車を使う。(習慣)

この疑念に始まり信念で終わる心的活動の一連の流れが思考であり、生まれる信念は行動の規則となります。
この信念(行動規則)の現実世界での具体的適用と応用の中で、さらに新たな疑念が生じ、次々と生まれる思考の重層的な連鎖のメロディーによって、私たちの精神生活が紡がれていきます。

反転される意味論

一般的には、観念や思考には意味があり、その意味に従った行為や結果が出る、という立場が主流です。
しかし、パースはそれを反転し、思考や観念の意味は行為や結果が生み出すものだと主張します。
初見の人との長話に付き合わされる時と、気の合う仲間と議論が白熱している時に発する「今、何時」という言葉は、真逆の結果(前者は停止、後者は延長)をもたらすがゆえに、文の意味としては同義だとしても実際的な結果から意味をカテゴライズするプラグマティズム的には対義となります。
逆に文の意味としては対義のものでも、プラグマティズム的には同義になることもよくあります。

要はそれぞれの信念が同一の疑念を抑え同一の行動の規則を導くなら、それらの信念は同一であり同一の習慣を生み出します。
思考の意味は実践や行動抜きには決して存在しえず、実際面での区分以外のものを基準にするような意味の差異など、意味とは無関係な単なる無駄なおしゃべりと違いはないのです。

意味は必ず知覚可能であり、「かたさ」の意味とは一定限度叩いても壊れないという実践的な結果からのみ生ずるものです。
あらゆる事物についての観念は、その事物の知覚可能な効果や結果についての観念でしかありえません。
こうしてパースの有名な格率が生まれます。

「私たちの概念の対象がどのような効果を、つまり実践的に関わることが予想されるどのような効果を持つと考えられるかを考察してみよ。そうすれば、こうした効果についてのわれわれの概念こそが、われわれの対象の概念全体であることが分かる」

「愛」という概念の意味とは、子を守る母猫であり、死に涙する人であり、手を引き合う老夫婦であり、家族の為に出稼ぎで働く工夫であり・・・、その実際的に予想可能な全体、のみでしかありえないのです。

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