メディアリテラシーとは何か

芸術/メディア

 

わたしたちの経験の大半は、メディア(音声、文字、映像など)を通して得たものです。
人との会話からテレビのドキュメント番組まで。
リアルタイムで実体験できることには、今、ここ、一日24時間、等の限界があるため、それ以上の経験を望むならばメディアを通すしかありません。

しかし、メディアを通して得る体験は、つねにメディアの発信者によって編集されています。
親とのケンカ話を友人に聴かされるとき、親子双方のすべての言動を口頭で報告されれば、日付が変わってしまいます。
だから昼休み時間内に親子喧嘩の愚痴をまとめるためには、ほんの一部のみを取り出して組み替えて、いわば編集した形で報告せねばなりません。
一週間アフリカ滞在のドキュメントを、七日間ぶっ通しの番組として放送するわけにはいかないでしょう。

 

この、編集という作業がかなり厄介なもので、時にそれが嘘をつかずに嘘をつく、巧妙な詐術の手段となります。
恣意的に必要な部分のみ切り取り、意図的に誤解を与えるような配列にすれば、嘘をつくことなく(なぜならそれは端的に事実の羅列なので嘘ではない)、白を黒にすることもできます。
法廷という絶対に嘘をつくことを許されない場所で有罪を無罪にする巧みな弁論術や、冤罪を生み出す際にもこれが利用されます。

 

具体例を挙げてみましょう。

1、少女Aがいきなり少女Bをひっぱたきます。

2、叩かれたBは怒って、Aに向かって罵倒の言葉を吐きます。

3、Aは逆ギレしてさらにBを叩きます。

4、Bは泣いてしまいます。

5、しかし、しばらくすると優しいBは気を取り直してAの暴力を許し、微笑みます。

6、Bはさらに仲直りの握手を求めます。

7、AはBのその聖者のような態度に腹を立て、泣き出すほど発狂します。

 

この一連の出来事をメディアを通して他者に伝える場合、編集という作業が入ります。
仮に編集の尺の関係で、この七項目から三項目しか選べないとします。

Aが悪いことをしたという事実をある程度正確に伝えようとした場合、「1、4、6」の順で選んで編集するのがベストでしょう。
「AがBを叩き、Bが泣き、しばらくしてBが仲直りの握手を求める」という主旨になります。

しかし、もし編集者がBに悪意を持っていた場合、編集によってこの事実を反転して伝えることができます。
「2、7、5」の順で編集すれば、「BはAを罵倒し、Aは発狂するほど泣き、それを見たBは薄ら笑いを浮かべる」という主旨になります。
これにより、リアルタイムの現実ではAが悪いはずなのに、メディアの編集によりBを悪者にすることができるのです。
だからといって編集者は嘘をついているわけではありません。
あくまでも事実に起こったことを、並べているだけです。


Art by David Suter

 

程度の差はあれ、ほぼすべてのメディアでこの恣意的な編集が行われています。
たとえば夫婦ゲンカの言い分を双方から聞くと、どちらも相手が悪いという間逆の解釈で伝えてきます。
同じ歴史的な事実も、対立国によって間逆の意味の編集によって歴史の教科書に載せられています。

だから、メディアを通して経験を得る場合、それが友人とのおしゃべりであれテレビの報道番組であれ、程度の差はありますが、編集という恣意的な解釈によって捻じ曲げられた事実だということを理解しておかねばなりません。

発信者の立場と人となりを加味した上で、その事実がどれくらいどの方向に捻じ曲げられて伝えられているか、自分の力で読み解くしかありません。
それがいわゆるメディアリテラシーです。

たとえば私は、他人の陰口を言う人の言葉をまったく信用しません。
なぜなら、陰口を言うようなズルくて感情的な人が、正しく事実を伝えるとは到底思えないからです。

 

おわり

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