エリクソンのアイデンティティとライフサイクル(2)

1のつづき

4、「学童期・勤勉性の発達」
システマティックに道具を扱う世界に順応する時期です。
遊びとしての道具である玩具から、何らかの社会的目的のために機能的に道具を扱うことを学ぶ、社会化へ向けての訓練をします。
生産的なものの達成が目的となり、無目的な気まぐれである遊びに取って代わります。
遊びにおける刹那的な快楽が、忍耐強く勤勉に目的を達する充実感や有能感、計画的で持続的な喜びとなります。
手足をばたつかせ走り回る純粋な喜びから、手でものを生産し目的地へ向かって走る喜びへと変わります。
こうして子供は生産的な関係(社会)の単位の一つになります。
社会的な関係性の中で自分はどういう位置のどういう単位になるのか、自分の社会的アイデンティティーの意識が明確になってくる重要な時期です。

しかし、この段階での失敗は、不能感や劣等感、自分は不適格者であるとの意識を呼び覚まします。
仲間や道具の世界の中でのひとつの単位として同一化する希望(社会の中での役割意識)を失うと、道具に対する意識が薄く、社会関係から逃れ家族間競争にのみ囚われた、孤独なエディプス期時代の状態に退行することになります。
いわば社会的生産関係の意識のない、家の中だけが私の世界であるという楽園にとどまり続けることを望むのです。

5、「青年期・同一性の発達」
学童期の発達までに家族との関わりの中で達成した自己同一性の技能と役割と信頼を、今度は職業的な規範いわば社会的な同一性に結びつけ、合致・統合させていく作業が必要になります。
ここにおいては他人が私をどう見ているか、他人に対する自己の存在意味(自己の社会的位置)の確認が第一の関心事になってきます。
恋愛や友情がこの段階において顕著になるのは、お互いに我を忘れあう他者との深い関係性のキャッチボールの中で、徐々に自己の社会における役割、同一性が明確化にされていくからです。

この段階における危険は社会役割の混乱です。
自分は一体何になりたいのか何をなすべきなのか、自分(家族)が今まで培ってきたものと他人(社会)が私に要求するものの齟齬、そこから生ずる自己の同一性が分裂してしまいそうな不安。
青年は職業に対する同一性を最終的に固められないまま、自分自身の「何ものでもない」不安感を埋め合わせるために、他者への過度の同一化を行います。
徒党や群衆の中に、仲間の中に、ヒーローの中に同一し、自分を失ってまでそれになり切ろうとします。
自己を失い同一化するため、自立した批判能力を持てず、異文化、異趣味、異容姿に対しての異様なほどの排他性と残酷なイジメの構造が生まれます。
徒党を組むことによって定型化した価値に同一化することで、自分の意見を持ち自分自身で価値を選択するという課題への不安から逃れられます。
異なる価値観に対しての不寛容性は、自己の同一性の混乱を防ぐための防衛機制として機能しています。

6、「成人期・親密性の発達」
前段階までの他者関係は、自己の同一性を形成していくために他者を必要としていた依存的なものでしたが、青年期を通じて自己同一性を確立した成人は、ようやく一対一の他者関係を結ぶことができます。
自立した個人同士が結びつく、本当の親密性が発達する時期です。
ギリシャ神話のアンドロギュノスのように、半身が互いに求め合い結合して一人前になる依存的親密性ではなく、お互いが一人前であり成熟した者同士のつながりです(フロムの項を参照)。

これまでの過程で自立したアイデンティティーを確立していない場合、自己が他者に呑まれること(自己の消失)を恐れ、
他者と距離をとり孤独の中に沈み込むこととなります。
縄張りを守る孤独な野良猫のように、親密さを示し近づいてくれる人にすら、敵対的な破壊衝動を向けます。

7、「壮年期・生殖(生産)性の発達」
自分たちの子孫を導き、次の世代を確立させることの能力の発達です。
生殖に限らず、何らかの外的理由ないしは内的才能の強さによって、学問や芸術作品の生産など他方向に向けられることもあります。
生殖性といっても生物学的なものに限らず、人間社会全体を包括した創造的な生産サイクルを進める概念です。

この生産性能力の成熟に失敗すると、退行、停滞、人格的貧困をともない、自身に生殖性のベクトルが逆流し、自分自身という子供を自分自身が育て甘やかすというマスターベーション的なナルチシズムに陥ります。

8、「老年期・自我の統合性の発達」
上述の七つの発達段階を経たのちに、その果実として実るものが「自我の統合」という心理状態です。
それは秩序を求め意味を探す自我の働きに対しての、今までの成長を通して蓄積された確信。
それはナルチシズムではない自己への愛と信頼、ただ一回だけの自分の人生をかけがえのないもの、そうあらねばならなかったものとして肯定すること。
個人の生の営みは歴史のほんの一瞬の現象であることを自覚しつつ、同時にそれは人間すべての営みに統合されるものとしてあることをも熟知している状態。
人間のすべての統合は世界の統合様式と生死を共にするものであるということの認識。
世界と私が和合した最終的結合の段階において、死はその痛みを失い平安の状態へと導かれます。

この積み重ねられた発達段階である自我の統合が欠如している場合、死の恐怖が頭をもたげます。
たった一度きりの人生を究極的に受け入れることができず、かといって人生をやり直せるだけの時間も無い。
その焦りが老年期特有の絶望とペシミズムを生み出します。

エリクソンはこの最終段階の心理状態を言語によって明確に定義することの難しさを述べます。
そんな彼が成熟した大人として挙げる一例に、賢明なインディアンというものがあります。
最後にそのイメージだけでもつかめるように、有名なインディアンの詩を引用します。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。」

『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド著 金関寿夫訳 めるくまーる社 より

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