エリクソンのアイデンティティとライフサイクル

心理/精神 社会/政治

アイデンティティ

アイデンティティとは自己同一性のことです。
それは時間や場所の変化によってコロコロ変わるものではなく、安定して自己が常に同一であるということの意味です。
今、私は私であり、過去においても私は私であったし、未来においても私は私であり続けるだろうという確信。
此処、において私には私固有の役割や居場所があり、孤立ではなく社会という他者との共同性の中で自立した存在であるという確信。

私たちは生まれ落ちた瞬間は、名もない誰でもない誰かです。
そんな私が名を与えられ、役所にその名を登録された時、私が誰であるかが社会の中で位置づけられます。
苗字によって何々家の一員という歴史を背負い、名前によって私が社会の中で固有性をもつことが許されます。
アイデンティティとは完全に社会的な概念です。
無人島で永遠にひとりで生活する人にアイデンティティは必要ありません。
私が他の誰かである可能性がそもそも存在していないところでは、同一性というものが意味を持ちません。

人間が社会的動物である以上、社会の中で心理的に安定して生活していけることが非常に重要になります。
いわば社会の中での私の安定した位置づけ、私が私であること(アイデンティティ)の安心が大切です。
想像してください、過去や歴史というアイデンティティーの重要な要素を剥奪された親のない捨て子の不安を。
想像してください、祖国が二つありどちらに居ても排除される、固有名が二つある通名在日外国人の不安定な心理を。

このアイデンティティをめぐる心の力動関係の歪みが、精神病理的な人格を作り上げる主要な原因になるというのが、エリクソンの考えです。

ライフサイクル

フロイトによる発達段階説をエリクソン流にアイデンティティの発達段階として対応的に示したものがライフサイクルの八段階です。

1、「乳児期・基本的信頼の発達」

絶対的に依存することでしか生存できない無力な赤子にとって、信頼して自分の身を任せられる保護者の世話が必須になります。
もしここで保護者の愛に恵まれない場合、世界を信頼するという自己同一性における基本的な能力を発達させることができず、経験の一貫性や連続性や斉一性を失い、不安定な人格を形成することになります(分裂病質や抑うつ質など)。
私も他者も信じられず、経験そのものにまで及ぶ不信の中で、恒常的な自己同一性を保つことは不可能です。

2、「幼児前期・自律性の発達」

この段階は自分でコントロールしていく(律する)という感覚を発達させる時期です。
身体的成長に伴い、排便の筋力調整や掴む手放すのどの基本動作が可能となり、快適な環境や不快な環境を自分の行為によって生み出せることを学びます。
いわば自由に意志し選択するという自律と自制の能力です。
この能力は後に、愛-憎、共同-自立、自由-責任などの社会的要素を調整するという、自己同一性にとって欠かせない力になります。

しかし、何らかの要因によってこの成長を阻害されると、歪んだ自律のベクトルが生じ、精神病理的な人格構造が形成されます。
例えば、コントロールの対象が自分自身にのみ向いたり、コントロールの手段に対しての異常な固執などが引き起こされた時に生ずる強迫神経症。
自律の失敗(出してはいけない時と場所でウンチをしてしまった等)によって生じる恥の意識を過度に強調して躾をした場合に生じる、永続的で病理的な恥の意識。
親の背後からの統制によって自律を強要することによって生じる背後への疑惑、そこから起こる強迫観念的な怯えと偏執的恐怖感の永続化。

3、「幼児後期・自発性の発達」

幼児前期からより成長した知力と運動能力によって、自律性より更に大きな計画や目標に積極的に取り組む自発性が発達します。
親のしつけという外部の力を内在化し、自分の衝動をコントロールするという内的枠組みを形成する時期で、それは自律性における我意の制御よりも、より安定的で社会化された力強い自発的行為を生み出します。
フロイトの言う「超自我(良心、内在化された親の価値観)」を形成するエディプス期にあたり、これによりまさに私が自発的に行動する行為主体になります。
外部からの要求と自分の内部の欲求とのバランスを取るという、自発性にとってもっとも難しい作業に取り組みます。
この自発性の発達が未熟で後に強い葛藤が起こる時、ヒステリー性の麻痺・抑制・無力化や過剰補償のような病理が生じます。

4、「学童期・勤勉性の発達」

システマティックに道具を扱う世界に順応する時期です。
遊びとしての道具である玩具から、何らかの社会的目的のために機能的に道具を扱うことを学ぶ、社会化へ向けての訓練をします。
生産的なものの達成が目的となり、無目的な気まぐれである遊びに取って代わります。
遊びにおける刹那的な快楽が、忍耐強く勤勉に目的を達する充実感や有能感、計画的で持続的な喜びとなります。
手足をばたつかせ走り回る純粋な喜びから、手でものを生産し目的地へ向かって走る喜びへと変わります。
こうして子供は生産的な関係(社会)の単位の一つになります。
社会的な関係性の中で自分はどういう位置のどういう単位になるのか、自分の社会的アイデンティティーの意識が明確になってくる重要な時期です。

しかし、この段階での失敗は、不能感や劣等感、自分は不適格者であるとの意識を呼び覚まします。
仲間や道具の世界の中でのひとつの単位として同一化する希望(社会の中での役割意識)を失うと、道具に対する意識が薄く、社会関係から逃れ家族間競争にのみ囚われた、孤独なエディプス期時代の状態に退行することになります。
いわば社会的生産関係の意識のない、家の中だけが私の世界であるという楽園にとどまり続けることを望むのです。

5、「青年期・同一性の発達」

学童期の発達までに家族との関わりの中で達成した自己同一性の技能と役割と信頼を、今度は職業的な規範いわば社会的な同一性に結びつけ、合致・統合させていく作業が必要になります。
ここにおいては他人が私をどう見ているか、他人に対する自己の存在意味(自己の社会的位置)の確認が第一の関心事になってきます。
恋愛や友情がこの段階において顕著になるのは、お互いに我を忘れあう他者との深い関係性のキャッチボールの中で、徐々に自己の社会における役割、同一性が明確化にされていくからです。

この段階における危険は社会役割の混乱です。
自分は一体何になりたいのか何をなすべきなのか、自分(家族)が今まで培ってきたものと他人(社会)が私に要求するものの齟齬、そこから生ずる自己の同一性が分裂してしまいそうな不安。
青年は職業に対する同一性を最終的に固められないまま、自分自身の「何ものでもない」不安感を埋め合わせるために、他者への過度の同一化を行います。
徒党や群衆の中に、仲間の中に、ヒーローの中に同一し、自分を失ってまでそれになり切ろうとします。
自己を失い同一化するため、自立した批判能力を持てず、異文化、異趣味、異容姿に対しての異様なほどの排他性と残酷なイジメの構造が生まれます。
徒党を組むことによって定型化した価値に同一化することで、自分の意見を持ち自分自身で価値を選択するという課題への不安から逃れられます。
異なる価値観に対しての不寛容性は、自己の同一性の混乱を防ぐための防衛機制として機能しています。

6、「成人期・親密性の発達」

前段階までの他者関係は、自己の同一性を形成していくために他者を必要としていた依存的なものでしたが、青年期を通じて自己同一性を確立した成人は、ようやく一対一の他者関係を結ぶことができます。
自立した個人同士が結びつく、本当の親密性が発達する時期です。
ギリシャ神話のアンドロギュノスのように、半身が互いに求め合い結合して一人前になる依存的親密性ではなく、お互いが一人前であり成熟した者同士のつながりです(フロムの項を参照)。

これまでの過程で自立したアイデンティティーを確立していない場合、自己が他者に呑まれること(自己の消失)を恐れ、
他者と距離をとり孤独の中に沈み込むこととなります。
縄張りを守る孤独な野良猫のように、親密さを示し近づいてくれる人にすら、敵対的な破壊衝動を向けます。

7、「壮年期・生殖(生産)性の発達」

自分たちの子孫を導き、次の世代を確立させることの能力の発達です。
生殖に限らず、何らかの外的理由ないしは内的才能の強さによって、学問や芸術作品の生産など他方向に向けられることもあります。
生殖性といっても生物学的なものに限らず、人間社会全体を包括した創造的な生産サイクルを進める概念です。

この生産性能力の成熟に失敗すると、退行、停滞、人格的貧困をともない、自身に生殖性のベクトルが逆流し、自分自身という子供を自分自身が育て甘やかすというマスターベーション的なナルチシズムに陥ります。

8、「老年期・自我の統合性の発達」

上述の七つの発達段階を経たのちに、その果実として実るものが「自我の統合」という心理状態です。
それは秩序を求め意味を探す自我の働きに対しての、今までの成長を通して蓄積された確信。
それはナルチシズムではない自己への愛と信頼、ただ一回だけの自分の人生をかけがえのないもの、そうあらねばならなかったものとして肯定すること。
個人の生の営みは歴史のほんの一瞬の現象であることを自覚しつつ、同時にそれは人間すべての営みに統合されるものとしてあることをも熟知している状態。
人間のすべての統合は世界の統合様式と生死を共にするものであるということの認識。
世界と私が和合した最終的結合の段階において、死はその痛みを失い平安の状態へと導かれます。

この積み重ねられた発達段階である自我の統合が欠如している場合、死の恐怖が頭をもたげます。
たった一度きりの人生を究極的に受け入れることができず、かといって人生をやり直せるだけの時間も無い。
その焦りが老年期特有の絶望とペシミズムを生み出します。

エリクソンはこの最終段階の心理状態を言語によって明確に定義することの難しさを述べます。
そんな彼が成熟した大人として挙げる一例に、賢明なインディアンというものがあります。
最後にそのイメージだけでもつかめるように、有名なインディアンの詩を引用します。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。」

『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド著 金関寿夫訳 めるくまーる社 より

おわり

(関連記事)ロジャーズの自己実現

(関連記事)バンデューラの自己効力感

(関連記事)デシの『人を伸ばす力』