グレッグ・ マキューンの『エッセンシャル思考』

経済/ビジネス

本質を知る

邦訳のタイトルは『エッセンシャル思考』ですが、原著のタイトルは「Essentialism」直訳すれば本質主義です。
本質とはある事物を成立させるための要になる性質のことです。
分かりやすくいうとその事物の「何であるか」です。
イスの本質は「座る(ための)もの」であり、勉強の本質は「知識を得る(ための)もの」です。
本質を規定する軸となるのは、それに関連付けられた目的(~のための)です。
例えば「硬い」の本質に一体なんの目的(~のため)があるのだと思われてしまいますが、硬度の比較により事物を分けること自体に、事物の物理的な利用に向けての枠組み形成の目的が隠れています。
「人間」の本質規定が無数にある(大脳、心、言語、道具使用、二足歩行、等々)のは、人間をどういう目的に向けて捉えているかの相違いからくるものです。

 

目的を知る

この「目的(~のため)」は常により上位のものと関連付けられて成立しており、それをさかのぼっていくと、最終的にすべてを規定する根本的な目的にたどり着きます。

例えば、何のために宿題をするのかと高校生A君に問うたとします。
彼は言います、通知表でよい評価を得るためだと。
さらに何のためによい評価を得るのかと問うと、よい大学に行くためと答え、さらに何のためによい大学に行くのかと問うと、よい会社に就職するためと答え、さらによい会社へ行くのは経済的な安定のためであり、経済的安定は物的に裕福な生活を送るためであり、物的な裕福さは幸せになるためのものであると答えます。
A君が宿題を頑張るという行為は、物的裕福さ(幸せ)という最終目的に向けられた手段であるわけです。
仮に刹那的な異性交遊が幸せ(最終目的)であるというB君なら、宿題を頑張るのはよい成績を取って異性にもてる為の手段だと答えるでしょう。

このように、人間の行為とそれを取り巻く事物世界は、本質(目的)の連結により構成されています。
ここまでがグレッグ・マキューンの本質主義を理解するための前提となります。

 

本質主義

この関係を自覚的に捉え、常に本質を意識しながら目的に向かって行動を選択していくことで目的達成の最短の近道になるということ、それが「Essentialism(エッセンシャリズム)」の主旨です。

例えば私が「快適な生活空間としての家を建てること」を最終目的にしたとします。
それにはお金を集め、土地を買い、設計図を描き、家(基礎と躯体)を作り、それを飾り(内装外装)ます。
お金をたくさん集めるほどよりよい家ができると思いがちですが、その本質(快適な生活)を自覚してみると、一定限度額以上のローンを組むことは後にそのための時間と労力を奪い私を疲弊させ、むしろ不快な生活を生じさせる原因となります。
設計図にこだわることも重要ですが、一生懸命ドローイングを練習して、フランク・ロイド・ライトのような芸術的に美しい設計図を描いたところで、その本質(快適な生活)を自覚してみるとそれは大幅な時間と労力の無駄になってしまいます。
大工仕事において道具は命ですが、だからといってその本質(家を建てる)を忘れ、良い道具集めに躍起になっているうちに工期が終わってしまっては意味がありません。
使いもしない銘入りのカンナを集めて喜ぶ大工は、いつのまにか大工の本質をはずれ、収集家としての本質にずれてしまっているのです。

こんな風に、私たちは本質を外れた無益な目的に仕事の多くの部分を割き浪費しています。
しかし本質主義に従い、常に目の前にある仕事をする際に「その本質は何なのか」を問えば、それを避けることができます。
仕事の評価というのは、近視眼的な最大値を目指すことではなく、全体として見た時にその仕事の本質が適切に発揮されていることであり、「最高とは、最大をさすのではなく、最適をさすのだ」ということになります。

 

成功への道

目的地をきっちり定めれば、そこへ向かう手段と最短のルートが必然的に導かれます。
「どの電車に乗りどの道を歩けばいいか分からない」と目の前の手段に迷うのは、それは眼前の手段の問題ではなく、目的が明確にされていない、目的に迷っていることから生ずる問題なのです。

そうやって目的を明確に定めその本質を常に意識すれば、レーサーがカーブを曲がるときのアウト-イン-アウトのような、無駄のない軌道でゴールに達することができるのです。
それが「エッセンシャリズム(本質主義)」です。

 

おわり