ベンヤミンの『暴力批判論』

哲学/思想 社会/政治

本書のねらい

暴力批判論の目的は、暴力と法と正義の関係を描くことです。
いわば暴力の歴史哲学的記述です。

 

自然法的暴力と実定法的暴力

自然法的な暴力とは、目的が正しければ手段である暴力も正当化されるという考え方です。
例えば、生存競争で生き残るために競争相手に対して暴力を使用することなどです。
この暴力の正当化の判定基準は、目的の「正しさ」です。
特に万人が持つ権利として普遍的なものです。
ホッブズの言う自然権に近いもので、実定法のない自然状態における個人の生存の権利を考えた際に生ずる法です。
自分が生きるために他者を殺して食べても罰せられない動物のような、自然(ネイチャー)に与えられた「法」です。

これに対して実定法的な暴力とは、手段が合法的に正しい手続きで決定されれば目的も正当化されるという考え方です。
例えば、国民投票の多数決で隣国への武力行使が決定したなら、それは正当化された暴力と判定されます。
この暴力の正当化の判定基準は手段の「合法性」です。
特に国家がもつ相対的な権利です(国によって法が異なる)。
私たちの生きる法治国家の法、社会的に与えられた「法」のことです。

仮に実定法的国家以前に、人間集団同士が自然法的な暴力で争いあっていた世界があったとして、その中でも強力な集団Aが他集団を打ち負かし、「国家A」を建国したとします。
それにより、自然法的な暴力が支配していた世界から、実定法的な暴力が支配する世界へ変化します。
実定法的暴力は合法な暴力として認められ、以前の自然法的暴力は違法なものとして認められなくなります。
いわば個人の利害に基づく暴力は完全に抑圧され、法(国家)によって暴力は独占されます。

 

法措定的暴力と法維持的暴力

では、この合法暴力と違法暴力の区別の正当性は何によって保証されているのでしょうか。
端的にこれは戦争で勝った集団が建国時に措定した法によってです。
いわば、勝ったものが正当になるという暴力の歴史のリアルな証明書によってです。
この際に使用される暴力を「法措定的暴力」といいます。
戦争時に使用された法措定的暴力は、法措定後に法権力という形に姿を変え維持されます。
これと同時に血塗られた法措定的暴力の出自の記憶は隠蔽され、やがて法の根源にある暴力性は不問とされます。

法措定的暴力が法権力に形を変えると同時に、「法維持的暴力」が発生します。
これは単純に、法を破る者を刑罰という名の暴力によって、排除、矯正するシステムです。
分かりやすくいうと警察です。

しかし、これは一見すると法を遵守させるための暴力に見えますが、実際は法権力システムそのものを守ることが目的になっています。
個人が使用する違法な暴力とは、法措定以前の自然法的暴力が発露することです。
いわばせっかく戦争に勝って法措定した集団Aを脅かす、新たな法措定的暴力の芽が出現したということです。
国家は常にこれを恐れつぶします。
なぜなら、個人の法措定的暴力の発露は、無意識のうちに法権力の胡散臭さを読み取っている国民に、法措定的暴力の記憶を呼び覚まし、共感させるきっかけになるからです。
反体制の悪漢小説の主人公がヒーローとされる理由のひとつにそのあたりの要素も含まれます。

このようにして、国家は暴力のあらゆる歴史的記憶と出自を隠蔽し、権力の正当性を維持しつづけます。

 

神話的暴力と神的暴力

ベンヤミンはこの法措定的暴力を神話とのアナロジーによってとらえ、「神話的暴力」と名づけます。
そしてこれに対決する革命的な暴力として「神的暴力」を挙げます。
しかし、これについては具体的な記述がなく、ただ神話的暴力の否定概念として提示されるにとどまります。

「神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は境界を認めない。前者が罪を作りあがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である」(「暴力批判論」W.ベンヤミン 野村修訳より)

 

解説

曖昧なだけではただのポエムなので、この神的暴力というものがどういうものなのか、具体的に考えてみます。
まず、その本質として、それが現在在る法措定的暴力および法維持的暴力の外に在るものだということです。

基本的に人間社会における正義とは法を遵守することであり、悪とは法を破ることです。
当然、社会共同体によって法は異なるので、パスカルの言うように、緯度がほんの少し変われば、正義というものもコロコロ変わるということになります。
要は人間社会における法、正義とは、相対的なものであるということです。

この問題を主題として扱ったのが、ソポクレスのギリシャ悲劇『アンティゴネ』です。
王位争いにおいて戦い死んだアンティゴネの兄(正統の王位継承者だった)の遺体を、王(アンティゴネの叔父にあたり王家の血をひかない)は、野ざらしにするよう命じます。
葬儀もなされず埋葬も禁じられた兄の姿に耐えられず、妹アンティゴネは、王の禁令を破り、兄を埋葬します。
王は、令を破ったアンティゴネに対し事実上の死刑を宣告します。

人間-社会の法である王の命に背き、神-万物の法である近親者への愛を重んじたため、アンティゴネは命を失ったとされます。
ちなみにアンティゴネの行為(法破り)は、神意に基づくものであることが劇中で示唆されています。
法における正義というものが、人間の作ったものである以上、それは常に不完全なものです。
むしろ法を守ることそのものが、極めて不正義であるようなことが生じえます。
この状況下で真に正義を志向するということは、つまり、法外の正義を志向するということです。

国家や社会という法維持的暴力内において、この法外の正義を実現することは、すなわち、掟(法)を破るということです。
法を破壊し、境界を認めず、罪を取り去り、衝撃的で、血の匂いがない「神的暴力」とは、そういうものを指すのであり、決して血で血を洗う単純な革命的ゲバルト(物理的な暴力)を指しているのではありません。

私たち社会に生きる人間が正義だと思っている境界以上の正義というものが必ずあるはずであり、私たちが罪だと裁くもののうちには、決して罪ではないもの、赦すべきものが必ずあるはずです。
法を破ってでも、それを実現することの比喩的な表現が「神的暴力」ということでしょう。

 

おわり

 

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