フランクルのロゴセラピー(2)

1のつづき

意味への意志

フランクルの重要な主張は、まずはじめに「意味」が存在していてそれを行為が追いかけるのではなく、行為が同時に意味を生み出すということにあります。
行為の伴わない意味など存在しないということです。
生きる意味などはじめからありません。
生きることそのものが意味そのものだからです。
世界が意味に満ちているがゆえに、人間は自由でありすぎ、逆に無意味に見えてしまうのです。
例えば、人生に意味がないから毎日寝て過ごすという人は、人生の意味は寝ること(安楽)にあると行為によって決断したということです。
フロイトが人間の生の原動力として「快楽への意志」を、アドラーが「権力への意志」を措定した場所に、フランクルは「意味への意志」を置きます(アイデアの源泉として、それぞれ順にショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデガーに対応しています)。
「人間は意味を意志する存在だ」ということは、今の自分を超え出ていくという運動が人間の行為の本質であり、かつ人間のその行為が必然的に意味を創り出す当為であるということを、結果から逆算して語ったことばです。

逆説志向法と脱反省法

では、具体的にどういう方法で治療するのでしょうか。
フランクル自身がごく僅かなものしか挙げていないので、たんなる一例にすぎませんが「逆説志向法」と「脱反省法」があります。

「逆説志向法」・・・いくら眠ろうとしても眠れない不眠で悩む患者に対し、逆にベッドに入ったら絶対に眠らないように志向させます。
すると眠らないように気張っていても、自然と眠りに落ちることになります。
意味連環の網目の中で固定した意味に囚われて身動きができなくなっている患者に対して、逆説をぶつけることによってそれを崩して相対化し、客観的な立場に身を置けるようにするのです。
それはユーモアにも似た立ち位置で、私を私が笑うことのできる自己距離化された態勢です。

「脱反省法」・・・逆にそうした自己距離化した自分(反省的自己)に固定されてしまって、生活世界(非反省的自己)で支障をきたす人もいます。
例えば映画を観ていても、感動する場面になると反省的な自分が邪魔をするのです。
泣きそうになると「作り物に泣いてるの?」、面白いシーンになると「そんな幼稚なのが面白いの?」という風に自分が自分を見る反省ばかりが作動して、生活に対して集中できない状態です。
この場合、自分自身を注視する反省を止めさせるためには、自分自身を忘れさせなければなりません。
人が自分自身(我)を忘れるときは、意味に没頭している時です。
仮にこれが自分と同じ悩みを抱える神経症者治療のドキュメンタリー映画なら、食い入るように画面を見つめ意味に没頭し、反省する余地もないでしょう。
没頭することができない現在の自分の意味連環を、没頭できるほどより強い高次の意味連環の網に構造化し直すことによって、治療するのです。
映画では反省的な自己が出て感動ができないなら、旅に出て世界中の我を忘れるほど圧倒的な絶景を見て回ればいいのです。
会社でお腹が鳴って恥ずかしい自分を自分が見て仕事に集中できないなら、そんな下らない事を気にしている暇がないほど本当に興味を持って集中できる仕事に就けばいいのです。
「精神的実存いわば本来の自我は、反省(的に把握することが)不可能なものであり、みずからを実現するという現実においてのみ現実存在するものなのである」(『識られざる神』V.E.フランクルより)

私固有の意味を生きる

意味への意志を基とするといっても、ロゴセラピストは決して患者に意味を与えません。
存在論的意味理解の過程の記述を指標にして、患者が意味を見つけ創造する手助けをするだけです。
チェスの王者に対して一般人が「最高の一手を教えてください」と尋ねる時、王者は「最高の一手などない。その盤面の状況次第で最適の一手は変化するもので、それはその状況の中にいる本人にしか分からない」と答えます。
同じように「意味」にも絶対や固定したものなどなく、まして世界から与えられるものでもなく、それは本人がその状況の中で自分自身で見つけ出すしかないもの、意味を生きることによってしか捉えられないものなのです。

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