フロムの『愛するということ』

愛されるのではなく愛すること

タイトルにもなっているように、フロムにとって愛において重要なのは、「愛される」のではなく「愛する」ということです。
それは互いに自立した男女が結ばれる愛のことであり、互いに自立できない男女が依存しあう愛ではありません。
自立した男女はお互いが能動的に「愛する」ことによって結ばれますが、それに対して依存しあう男女は「愛する」のではなく、ただ「愛される」ことを望んでいるだけなのです。

例えば、「日」と「月」という漢字はお互いに自立して意味を持っていますが、それらが結合すると「明」という新しい意味が生まれます。
それは掛け算のようなもので、お互いが自立しながらなお結合することによって、より上位の新しい意味が生まれるのです。
フロムにとっての愛とはそういう弁証法的に今より高みへ向かう能動的なものであって、依存しあうだけ(半人前がふたつでひとり)の閉鎖的なネガティブな愛ではありません。

恋人や夫婦間でケンカや対立が起こった時、互いが自立したもの同士ならそれは葛藤とその解消(カタルシス)をへて、より豊かな知識を得、結びつきが強くなります。
しかし、互いが自立できない男女の場合、その対立は依存関係の崩壊による自己同一性の危機を意味し、破局や病的な攻撃的対立に向かいます。

愛とは実存に対する人間の答え

では、なぜ愛は必要とされるのでしょうか。
フロムは端的に「愛とは実存に対する人間の答えだ」と言います。

人はただ、何の理由も分からないまま、世界に生み落とされます。
それはまるで言葉も知らない見知らぬ国の見知らぬ街に放り出されるようなものです。
フロムはそれを、幸せな楽園から追放されたアダムとイヴの孤独と不安に喩えます。
パスカルが「世界の中の一本の弱い葦」と喩え、ハイデガーが「世界の中に投げ出された存在」と言う在り方(実存)です。

だから人はその不安や孤独から逃れるために様々な行為を起こします。
お酒に逃げる人、レジャーや遊びでそれを忘れようとする人、仕事に打ち込む人、依存的な愛や宗教を求める人、等々。
我を忘れてそれらに耽る時、忘れたいのは不安と孤独の中にある我です。
快楽のいいである「エクスタシー」と言う言葉の語源は「エクスターゼ(我から抜け出す)」です。
快楽の中で我を忘れることが、実存の不安や孤独から逃れるための一番の麻薬なのです。

そこでフロムが出す実存的不安への回答が「愛」です。
我を忘れないで自立性と主体性を保ちながら、かつ他者と結合し、孤独ではない合一の状態を生み出す「愛」です。
それは他者を愛しながら同時に自分を愛する能力です。
むしろ自分を肯定することによってしか、本当に他者を愛することは出来ないのです。
自分を信じられる者のみが、他者のことを信じられるように(自分を信じない者は、潜在的に他者も信じない)。
もし、自分を愛せず他者しか愛せない献身的な人がいたとしても、それはただ我を忘れるために「愛」の似姿を利用しているだけの人なのです。

愛の広がり

フロムのいう愛は別に男女に限ったことではなく、家族や社会や自然に対してもあてはまります。
例えばこれを親から子への愛に適用すれば、それは子の所有や支配を求めるのではなく、子の自立を願う愛の形になります。
父親(法・理性)的な選抜的な厳しい愛と、母親(自然・感情)的な無条件な優しい愛とを同時に備えた形です。
自立して成熟した人間はその両方によって人を愛し、子はその両方の力を統合し健康的に成長します。
このどちらか一方を欠くと、結局依存的で自立を妨げる関係へ堕ちて、子は神経症的な発達をしてしまいます。

信心深いフロムは、神への愛に対しても同じような議論を展開していきます。

最後にまとめとしてフロムの言葉を引用します。

「人は意識の上では他者に愛されないことを恐れているが、本当は、無意識のうちに<愛すること>を恐れているのである。愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望を信じ、自身をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、信念を持たない人は愛することもできない」

目次へ