ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』

芸術/メディア

理論

複製技術の発展によって、芸術作品の「アウラ」が喪失する。
それにより、芸術形式とその受容態度(知覚のあり方)が変化する。

 

具体的には

【アウラとは何か】

ある高校生が最後の夏に恋人と花火大会に行くとします。
河川敷の草の香りや人々の熱気、手のひらに感じる恋人の汗や花火の轟音にかき消される声。
進学とともに離れ離れになる恋人との記憶(歴史)を感じながら、花火とともに終わる夏。

この絶対に複製できない、かけがえのない一回性の経験を取り巻く雰囲気のようなものを「アウラ」と呼びます。
アウラとは、「この場所」「この時間」「この歴史」の中で一回だけ生起する、オリジナルの経験なのです。
写真や映像のような複製技術でこの花火や恋人を撮ったとしても、このアウラは全て失われてしまいます。

複製技術によって失われたアウラを捏造するために、ブルートーンにして儚さを表現したり、スローモーションでかけがえのない大切な時間を演出したり、詩的な文章を添付して二人の歴史を説明したりしても、アウラは決して再現できません。

大聖堂で歌われる賛美歌のふるえる様なアウラ、アフリカの祝祭における仮面の躍動するアウラ、静かにたたずむ寺院の奥にある鈍く光る黄金の仏像の深みあるアウラ。
それに対し、CDで流れる平板なアウラなき賛美歌、博物館に並ぶ死んだようなアウラなき面、明るい美術館に引きずり出されピカピカ軽薄に光るアウラなき仏像。

【アウラ喪失後の芸術】

分かりやすくするために単純化して、アウラ的芸術との対比によってその要素を列挙してみます。

・アウラ的芸術の「この場所」が失われ芸術は礼拝的価値から、どこでにでも移動可能な展示的価値が中心となる。
場所の限定により一部の共同体にのみ可能だった作品受容の権利が、誰でも鑑賞可能な大衆化されたものとなる。

・礼拝のような感情移入的で精神を集中する能動的姿勢から、博物館の展示やお祭りの見世物を見るように、対象から距離を取りくつろいだ受動的姿勢に変化する。

・アウラの「真正性(オリジナル)」が失われることにより、真正性を継承するという伝統の概念も喪失し、伝統を軸とした共同体の崩壊が起こり、この世界の解放と平等化を意味する。

・アウラの「この時間」という歴史の重みが失われることにより、歴史的文脈を離れた芸術作品は、遊戯的な戯れ、自由に分離して組み換え可能なモンタージュ的芸術となる。

・芸術作品は自然やオリジナルという模範を失い、その模倣(ミーメーシス)であることをやめ、芸術作品自体が自立性を持ち作品を自己産出しはじめる。
例えば写真という複製品を編集-モンタージュ-することによって生まれる映画など。

・複製技術は対象を神話化するアウラを剥ぎ取り、対象(世界)を非人間化する。

・偉大な作品は偉大な天才と言う個人が生み出すのではなく、芸術作品は非個人的で集団的な知覚を基にして生じる大衆ベースのものとなる。

・アウラ的芸術においては視覚中心の知覚形式だったものが、触覚的知覚形式へと変化する。
複製技術によって散り散りになった現代の雑踏では、統一的な把握方法である視覚的な遠近法が役に立たないため、全体に漂うような姿勢で対象から距離を取り、まとまりの無いもののまとまりを把握するくつろいだ触覚的な知覚が有効になる。
例えば、初めて海外の有名な寺院を訪ねる時、旅行者は視覚的に建築をとらえようとする(見物・注目)。
しかし、その寺院に住む僧は使用することの中(触覚)で建築を把握し、使用することの中で慣れた目つきでふとそれを見ることしかしない。

 

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