マクルーハンのメディアはメッセージである

理論

「メディアはメッセージである」ということは、「容れ物(形式)こそが中身(内容)だ」ということである。

具体的には

子供に好きな食べ物を訊ねた時、「お弁当!」と答える子供がいます。
ハンバーグやお寿司などの中身ではなく、容れ物であるお弁当そのものを指して答えます。
その子供は、お弁当という形式自体が含むもの全般を感じ取って、答えているのです。
弁当には熱いものや生もの、汁気のあるものや柔らかいものなどは入れられません。
社会的な常識も手伝って、お弁当といえば「玉子焼き、ウインナー、プチトマト」などのイメージでしょうか。
いずれにせよ、弁当という形式を選んだ時点で、必然的に内容がほぼ決定されてしまっているのです。

どんな絵が好きですかと訊ねると、「水彩画が好き」と答える女性がよくいます。
具体的な作者や作品などの内容ではなく、形式である水彩を答えとしています。
彼女も上述の子供と同様、水彩という形式自体が含むもの全般を感じ取って、答えているのです。
油絵具と違い、水彩は描き直しや厚塗りが難しく、半透明で地が透け、輪郭もぼやけます。
必然的に淡く、透明感のある、一筆勝負の緊張感あるタッチと同時に形のやわらかさを伴う絵となります。
水彩という形式を選んだ時点で、内容がほぼ決定されてしまっているのです。

アニメなら何でも観たがる幼児は、番組内容ではなく、アニメという形式そのものを楽しんでいます。
一世紀ほど遡る映画の黄金期に、映画館に熱狂的に集まった観客は、内容の差異を観て楽しんでいるのではありません。
その観客皆で一緒になる暗闇の空間(いわば幼児期の未だ個性が分化していない空間の再現)で、彼らは同時に泣き、同時に笑い、同時に興奮することそのものを楽しんでいるのです。
アクション映画を観るときに楽しむのは内容ではなく、モンタージュという形式のリズミカルなテンポであり、ロマンスを観るときに楽しむのはモーションという形式が生み出すじれったい空気感なのです。

メディアのメッセージ内容ばかりに気をとられた研究しかない時代に、研究のパラダイムを変え、形式の重要性を説くのが「メディアはメッセージである」というテーゼです。

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