マクルーハンのメディアはメッセージである

芸術/メディア

基本理念

結論から述べれば、「メディアはメッセージである」ということは、「容れ物(形式)こそが中身(内容)だ」ということです。
それをいくつかの類型に分けて、具体例で説明していきます。

 

一、容れ物に既定されている中身

たとえば、子供に好きな食べ物を訊ねた時、「お弁当!」と答える子がいます。
ハンバーグやお寿司などの中身ではなく、容れ物であるお弁当そのものを指して答えます。
その子供は、お弁当という形式自体が含むもの全般を感じ取って、答えているのです。
弁当には熱いものや生もの、汁気のあるものや柔らかいものなどは入れられません。
社会的な常識も手伝って、お弁当といえば「玉子焼き、ウインナー、プチトマト」などのイメージでしょうか。
いずれにせよ、弁当という形式を選んだ時点で、必然的に内容がほぼ決定されてしまっているのです。

どんな絵が好きですかと訊ねると、「水彩画が好き」と答える女性がよくいます。
具体的な作者や作品などの内容ではなく、形式である水彩を答えとしています。
彼女も上述の子供と同様、水彩という形式自体が含むもの全般を感じ取って、答えているのです。
油絵具と違い、水彩は描き直しや厚塗りが難しく、半透明で地が透け、輪郭もぼやけます。
必然的に淡く、透明感のある、一筆勝負の緊張感あるタッチと同時に形のやわらかさを伴う絵となります。
水彩という形式を選んだ時点で、内容がほぼ決定されてしまっているのです。

 

二、形式を受容しているだけで内容はスルー

糸電話の振動が耳をくすぐるのが楽しくて、延々と無内容なメッセージを送り合う子供達がいます。
子供はただ、糸電話というメディアを楽しんでいるだけであり、メッセージの内容などどうでも良いのです。
SNSでコミュニケーションをとる大人もそれと大差なく、珍品小道具(ガジェット)の操作の快楽を楽しんで(受容して)いるだけであり、メッセージは応答を成立させるものであれば、何でも良いのです。

アニメなら何でも観たがる幼児は、番組内容ではなく、アニメという形式そのものを楽しんでいるだけです。
一世紀ほど遡る映画の黄金期に、映画館に熱狂的に集まった観客は、内容の差異を観て楽しんでいるのではありません。
その観客皆で一緒になる暗闇の空間(いわば幼児期の未だ個性が分化していない空間の再現)で、彼らは同時に泣き、同時に笑い、同時に興奮することそのものを楽しんでいるのです。
アクション映画を観るときに楽しむのは内容ではなく、モンタージュという形式のリズミカルなテンポであり、ロマンスを観るときに楽しむのはモーションという形式が生み出すじれったい空気感なのです。

 

三、形式そのものが伝えるメッセージ

例えば、同じ時刻というメッセージを伝えるにしても、アナログ時計とデジタル時計というそのメディアの違いによって、その伝わる内容は大きく異なります。

アナログ時計は図像を中心としたものであり、それは円グラフのような量的な面積によって時間が把握されます。
太陽の高度が時間を漠然としたイメージとして人間に伝えますが、その縮尺版と言ったところです。
時計の針が11時を示す時、最後の一葉のように残された12時までの一片(日没前の太陽と地平線の隙間のような)が、残り時間のメッセージであり、刻々と目減りしていく時間の貴重さが伝わることになります。
試験の時はアナログ時計を使用した方が合格率が高いというデータがありますが、それは瞬時に時間を全体的(未来-現在-過去)にイメージすることが可能であり、残り時間に対しての時間配分も立て易いからです。

それに対し、デジタル表示は純粋に抽象的な数字の表記であり、それはスケジュールの指示番号のように条件反射的な行動を引き起こす記号となります。
時計の数字が「23(夜11時)」を示す時、それは反射的あるいは指示的に就寝へと導きます。
番号順に行動を指示するプラモデルの組み立て説明書のように、番号内の行動の自立性が強調された様式で動くことになります。

このように、形式そのものが持つメッセージによって、私達の行動は大きく異なり、むしろ内容よりも形式の方が強い影響力を持っているとも言えます。

 

容れ物の重要性

「探偵ナイトスクープ」という人気のテレビ番組で、一流料理人が作った茶碗蒸しをプリンの容器に入れて、街の人に食べてもらうと言う実験がありました。
被験者はそれを一口食べると、苦虫を噛みつぶした様な顔になり「不味い」と言いますが、それが茶碗蒸しであることを伝えると、「美味しい美味しい」と言って食べはじめます。
実のところ、私達が食べているのは容器なのであって、中身はむしろ従属的なものなのです。

マクルーハンの主著のひとつである『メディア論』は読みにくいことで有名ですが、それも同じことです。
なぜかというと本書は新聞をモデルとしており、断片的な事実を並列し、読者はそれらのピースを集めることによって、ジグソーパズルを組み立てるように、その世界観のイメージを徐々に作り上げ、開示されるような仕組みになっているからです。
一般的な小説や論文のように、直線的にゴールに向かう合理的な説明(例えば、起承転結)に慣れている私達は、そういう既成のイメージで読んでしまい、非常に分かりにくく感じてしまうわけです。

マクルーハンはリニア(線上的)な説明を非常に嫌います。
それは旧式でダサい説明法であり、部分的にしかメッセージを伝えることのできない劣ったメディアであると考えているからです。

 

おわり

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