サルトルの実存は本質に先立つ

理論

人間には本質がない。
ゆえに人間は実存(現実存在の略)としての行為が、自分自身の本質を作っていく。

具体的には

物には本質があります(ある物を成立させる重要な性質を本質といいます)。
例えば石の性質(本質)は決まっているので、この力と角度で、この方向に発射すれば、空気抵抗と風によってこれくらい曲がり、この位置に落下する。
と、いうように、動きが因果律的に予想できます。
未来の動きが事前に決定されていることを、人は「運命」と呼びます。
本質が決定している石は、運命から逃れられません。

しかし、人間には本質がありません。
仮にCさんは、やさしく、勤勉な、学生、という性質を持っていたとします。
しかしこの性質は、Cさんの現実の行為によって簡単に破棄できます。
今すぐに犬を棒で叩き殺せば、やさしさという性質は残忍という性質に変わります。
今日から授業を一週間ずる休みしてバカンスに行けば、勤勉という性質は不真面目という性質に変わります。
さらにエスカレートし、数ヶ月無断で学校を休めば、学生という性質も無くせます。
逆に、残忍な性質を持つと言われる人も、一生懸命動物愛護の活動に従事すれば、やがてはやさしさという性質を持つことができるでしょう。

Aさんはやさしい行為をするから優しい人と呼ばれるようになり、Bさんは残忍な行為をするから残忍な人と呼ばれるようになります。
本来人間は、そうやって行為が先行し、その人のもつ性質を決定しているのに、いつの間にかそれがひっくり返って、Aさんは優しい人だからやさしい行為をし、Bさんは残忍な人だから残忍な行為をすると、転倒してとらえられてしまうのです。
その転倒したものの見方が、偏見を生むのです(自分自身に対しての偏見をサルトルは自己欺瞞といいます)。

だから、人間は石のように性質(本質)が決定されていないため、人間の動きは予測ができません。
それは、「人間は運命に支配されず、自分自身で行為を選択、決定し、自由だ」ということです。
自分自身の本質を、自分自身の行為によって、作っていくのです。
やさしく、勇敢で、おだやかで、快活な性質を持つ人間に成りたければ、日々の生活の中で直面する選択において、それらの行為を行ってゆくことで、そういう人間になれるのです。

・サルトルが挙げた例を物語風に脚色してみます。

ある売春宿の裏通りで女性が泣いています。
不憫に思った通りがかりのお坊さんが、どうしたのかと尋ねます。
娼婦は語ります。
若い頃からの貧困とイジメ、家庭内の虐待にも耐えかねて家出をした過去の悲惨。
ひとりで生活するために娼婦を選んだ末の、現在の抜け出せない悲惨な状況。
それらを思い、自己嫌悪に泣いているのだと。
すると、お坊さんはやさしく言います。
「人間誰だって、そういう悲惨な状況に生まれれば、そういう風になってしまうものだ。君は何にも悪くない、悪いのは環境なのだから、自分を責めてはいけない」と。
その言葉によって、娼婦は心が救われたような気持ちになりました。

しかし、ここでサルトルがやってきて、酷い言葉をかけます。
「自業自得だ、お前は好きで娼婦を選んだのだ。悲惨な境遇にあっても立派になる人間はいくらでもいるだろう」
さらに続けます。
「おまえ自身で選んだ道だから、抜け出すのもおまえ自身の選択でできるはずだ。今すぐに荷物をまとめて宿から抜け出せ」

一見、お坊さんの言葉はやさしく感じますが、実は彼女(人間)を物として見ています。
環境が与えられれば自動的に人間のその後の行為は決定する、ゆえに彼女は娼婦になった、と。
しかし、そう考えると、選択権のない彼女にはこの絶望的な状況から自分で抜け出すことができなくなってしまいます。
だから残酷に感じるサルトルの言葉の方に、実は希望があるのです。

「お前(人間)は決して状況の奴隷ではない。状況のせいにするということは人間をやめて人形(物)になることを選ぶということだ。現在の状況はお前自身で選び取って作ってきた道だ。だからこそこれから先の未来の道もお前自身の選択で決定できるはずだ。自分で選び取ること(自由)は責任と重圧をともなう。その緊張に負けて物になること(意思決定の選択を他者や環境に任せる)を選ぶのもお前の自由だ。すべてはお前自身の問題なのだ」

※もっとハウツー的に優しく理解したい人はこちら→『七つの習慣-第1主体性』