西田幾多郎の善

哲学/思想 宗教/倫理

 

理論

ふたつの対立するものが、実はひとつのつながったものであるということに気付いた時、対立は止みます。
それが西田の言う「善」ということです。

 

具体的には

『長所と短所』
昔々、容姿のとても醜いカジモドという若者がいました。
容姿のせいで自信の持てない年頃の彼には恋人ができません。
その代わりに理想の女性像を素晴らしい彫刻で日々作りあげていました。
それを不憫に思った神様は彼に美しい容姿を与え、彼には念願の恋人ができました。
しかし、その日を境に、カジモドは美しい彫刻を作ることを止めてしまいました。
彼の短所である容姿の悪さは、長所である彫刻の上手さとつながるひとつのものであったのです。
彼が短所を失くしたことで、長所をも失うことになってしまったのです。

『希望と絶望』
ある青年が希望のA大学の受験に失敗して絶望しています。
将来の夢である大手企業B社への就職のためには、絶対にA大学に合格しなければいけないと言います。
その時、大手企業Bの倒産がニュースで流れました。
すると、若者の絶望は嘘のように消えてしまいました。
大手企業Bへの就職という希望自体が消失したことで、絶望も綺麗さっぱり消えてしまったのです。
希望と絶望はひとつのものであり、そもそも希望を持たなければ絶望もありません。
いかに絶望していても、希望さえ変更すれば、それは絶望でなくなるのです。

『わたしと周り』
深海魚を一気に釣り上げると、からだが破裂してしまいます。
深海魚のからだは魚自身が形成していたのではなく、周囲の海水(水圧)が押さえ付けるようにして成り立っていたのです。
押さえてくれていた水圧が無くなったことによって、タガが外れた桶のようにバラバラになってしまったのです。
水圧と気圧の押さえる力は違いますが、人間のからだも周囲の空気によって成り立っているのです。
わたしも空間も、切り離せないひとつのものであったのです。
「わたし」と同じくらい、「周り」も大切なものだったのです。

 

善-悪、真-偽、幸-不幸、自-他、愛-憎・・・、すべての対立や争いは、それらが根本でつながるひとつのものなのだという認識の欠如から生まれるものなのです。

 

悟りの論理

たとえば、大人が手のひらで影絵の蝶々を作ると子供は興奮し、狼を作ると怯えます。
けれど、大人は影と光という対立物の全体を超越的な視点から見ているため、影絵がたんなるイリュージョン(幻影)でしかないと分かり、興奮することも怯えることもありません。

老いや病や死などの大人を苦しめる観念も、それと同じことです。
影しか見ずにそれを唯一の実在だと信じる子供のように、ふたつに割れたものの片方しか見ずに、それしか存在しないとかたくなに信じ、その幻影に苦しめられているのです。
勿論、その幻影は、人間の喜怒哀楽として人生を彩るものであって、決して悪いものではありません。

ある流行歌では、インドに行けば(悟りを開けば)「生きることの苦しみさえ消える」と言います。
しかし、それは「苦」が消えて「楽」が残るのでも、「悲しみ」が消えて「喜び」が残るということでもなく、それらの二項対立的な世俗の概念を超越した視点からものを見られるようになるため、対立物もろとも消えるということです。
絶望が消えて希望が残るのではなく、絶望だとか希望だとかそんなちっぽけな幻影よりもっと根源的な世界の中で生きるということです。

詳細は、西田幾多郎の『善の研究』の項にて。

 

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